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Youtubeな競馬動画で感動せよ > 伝説のレース


プリティな大逃げ

 
まだ3200mだった頃の天皇賞(秋)

この距離を気持ちよく、とんでもない逃げ方をして
勝ってしまった女の子がいました。

プリティキャストです。


<天皇賞(秋)1980>



この距離をここまで逃げて、そのまま押し切ってしまったのは、
彼女だけなのではないでしょうか。。


伝説として記憶に残るレースですね。

 

サンデーサイレンス伝説

 
サンデーサイレンス。

もう種牡馬としては日本歴代ナンバー1の成績ですね。

そんな彼の現役時代のご紹介です。

イージーゴアとデッドヒートを繰り広げたクラシックレース。


<ケンタッキーダービー>


直線よれまくりですね(^^)
でも強い。


<プリークネスステークス>



ブライアンvsトップガンの阪神大賞典のようです。。



3冠の期待がかかった「ベルモントステークス」では、
イージーゴアの2着にやぶれてしまいます。


現役時代を見たことない方いらっしゃると思いますので、
この機会に目に焼き付けておきましょう。


引き立て役なんかじゃない

 
メイショウドトウといえば、テイエムオペラオー。


テイエムオペラオーといえば、メイショウドトウ。


いつもオペラオーは1着で、ドトウは2着。


いつも前にはオペラオー。


自分はいつも準優勝。


そして、いつの間にか言われていました。


引き立て役・・・


辛かったでしょう。


耐えて、耐えてやっと迎えたこの瞬間。





「やった〜安田ぁー!」


という杉本さんの実況が、嬉しくなりました。


でも、自分的には


「やった〜ドトウ!」


方が良かったかな。


ドトウがいたからオペラオーが輝いた。


そんなドトウは決して引き立て役なんかじゃありません。


あきらめなければ夢はかなう。


そんな一つの真実を身を持って証明してくれた名馬です。



オペラオーがスムーズに回ってたら・・・

はタブーで(^▽^;)



<メイショウドトウ>
父 ビッグストーン
母 プリンセスリーマ

メイショウドトウは、日本の競走馬で、2001年宝塚記念の優勝馬である。
外国産馬でありながら、トライアル競走を勝って天皇賞に出走するなど、
古馬時代のテイエムオペラオーとは最大のライバル関係にあった。


取引価格は・・・


500万円


と破格の安さであった。


主戦騎手は安田康彦で、管理調教師安田伊佐夫の息子である。
全27戦中23戦に騎乗した。


戦績

1999年・・・

デビューは1999年1月、京都競馬場であった。
4月に500万下条件クラスを脱したものの、しばらく900万下条件クラスに留まる。
秋には連勝でオープンクラス入りを果たしたが、オープン入り後初戦の六甲ステークスは、
1番人気に推されながら11着に惨敗する。


2000年・・・
翌2000年、重賞初挑戦となった日経新春杯では8番人気ながら2着。
そして次走の中京記念を勝ち重賞ウィナーの仲間入りを果たした。

続く日経賞は3着だったがオープン特別競走のメトロポリタンステークス、
金鯱賞を連勝して宝塚記念に挑む。
なお、鞍上は安田が騎乗停止のため、河内洋であった。
レースでは同期の皐月賞優勝馬で
前年の最優秀4歳牡馬のテイエムオペラオーの前にクビ差2着に敗れた。

秋になり、オールカマーを的場均を鞍上に快勝して天皇賞(秋)に出走するが、
ここでもテイエムオペラオーに2馬身1/2差で差し切られ、2着に敗れる。
鞍上を安田に戻して挑んだ続くジャパンカップでも、
直線先頭に立ちながらクビ差の2着と三度テイエムオペラオーに敗れる。

有馬記念では、4コーナーを回ったところでテイエムオペラオーが馬群後方におり、
初めてのGI制覇かと思わせたが、テイエムオペラオーが一気の追い込みを見せ、
またしてもハナ差の2着に敗れた。

この年、年間8戦8勝のテイエムオペラオーがJRA賞の年度代表馬、
最優秀5歳以上牡馬に輝く中、
GIで4連続2着となったメイショウドトウには「引き立て役」であった。
また、JRA賞特別賞の話もあったがGI未勝利のため見送りとなってしまった。


2001年・・・
5歳となり、日経賞は単勝1.1倍の圧倒的人気に応えて勝利して
天皇賞(春)に出走するが、またもテイエムオペラオーの2着、


GIで5連続でテイエムオペラオーの2着


となる。

しかし、宝塚記念ではついに陣営の執念が実を結び、直線早めに抜け出すと
後方から伸びてくるテイエムオペラオーを抑え込み、初のGIの栄冠を手にした。
このGI勝利は、管理した安田伊佐夫だけでなく、馬主の松本好雄にとっても初のGI勝利となった。

天皇賞(秋)はアグネスデジタルの強襲でテイエムオペラオー2着、メイショウドトウ3着。
前年宝塚記念から続いた
テイエムオペラオー、メイショウドトウの1,2着の組み合わせは6連続でストップとなった。
ジャパンカップでもテイエムオペラオーこそジャングルポケットの2着ながら、
メイショウドトウは5着に敗れてしまう。

そして両陣営ともに「引退レース」と決めた有馬記念では初めて2頭が揃って同枠に入ったが、
この年の菊花賞優勝馬マンハッタンカフェの強烈な差し脚の前に4着に敗れた(テイエムオペラオーは5着)。

2002年1月13日、京都競馬場で


2頭そろっての引退式


が挙行され、種牡馬入りすることとなった。

通算獲得賞金は歴代6位であり、2000年のメトロポリタンステークスから
2001年の宝塚記念までオープンクラスで10連続連対(重賞に限ると9連続)、
この期間で敗れた相手はテイエムオペラオーのみと活躍したが、
GIでテイエムオペラオーの2着が5回あり、GI勝利は宝塚記念の1つのみである。

引退後は種牡馬入りし、2005年に初年度産駒がデビューしている。


(from Wikipedia)



二人仲良く迎えた引退式。


何を話してたんでしょうね(^^)




ブルボンもマックイーンも・・

 
ライスシャワー復活の天皇賞(春)です。


「ブルボンもマックイーンも応援している〜」

「やっぱりこの馬は強いのか〜」


杉本さん、いいこと言いますね。ホントに。





私は札幌のWINDSでこのレースを見ていたのですが、

ライスがあがっていった時には、もうほんとに、

建物が揺れるくらいの歓声があがりましたよ。


なんか。競馬っていいなぁ。。


と思った春の思い出です。


でも。名馬の宿命なんですかね・・・


最後は悲しい結果になってしまいました。




悲鳴が起きてますね・・・。


久しぶりに見てちょっと胸が苦しくなりました。。



その雄姿はいつまでも忘れません。



<ライスシャワー>

父:リアルシャダイ
母:ライラックポイント


<デビューから東京優駿まで>
母・ライラックポイントの「ライ」になぞらえて命名。
父・リアルシャダイの「シャ」を合わせて取り入れているという説もある。

1991年8月10日に新潟競馬場の新馬戦でデビュー勝ちし、
2戦目の新潟3歳ステークスは11着に敗退するが、続く芙蓉ステークスで2勝目を挙げる。
クラシック候補と期待されたが骨折で休養に入る。

明けて1992年、4歳(現馬齢表記で3歳)となったライスシャワーはスプリングステークス(4着)で復帰する。
続く皐月賞、NHK杯ではともに8着と精彩を欠き、東京優駿(日本ダービー)では16番人気の低評価を受けるが、
レースでは逃げるミホノブルボンの2番手を追走、直線では4馬身突き放されるが
後続の追撃(マヤノペトリュースとの壮絶な叩き合い)を振り切り、2着でゴールした。


<ミホノブルボンのクラシック三冠を阻止>
秋に入り、緒戦のセントライト記念をレガシーワールドの2着(鞍上は田中勝春)。
この頃から東京優駿(日本ダービー)の激走が本物であったと認識されてきた
(とはいえ、人気面では上がり馬のトレヴィット、ホワイトアクセルに続く3番人気に甘んじていた)。
続く京都新聞杯ではミホノブルボンの2着だったものの、その着差は1馬身半にまで縮まっていた。
迎えたクラシック最終戦の菊花賞では、無敗の三冠がかかったミホノブルボンを直線で差し切り、
3分5秒0のレコードタイム(当時)で優勝。自身初の重賞制覇をGIで飾る。


<メジロマックイーンの天皇賞(春)3連覇を阻止>
翌1993年は、緒戦の目黒記念2着のあと、順調に日経賞を勝利し、大目標である天皇賞(春)では、
3連覇がかかったメジロマックイーンを徹底マークする競馬で破り、
3分17秒1のレコードタイム(当時)で快勝する。大記録のかかった馬をゴール前鋭く差し切る姿から
「淀の刺客」「レコードクラッシャー」と呼ばれた。

余談ではあるが、当時は平成初頭の関西馬全盛期にあって、最もピークを極めた関東馬不遇の時代であったが、
この4月25日のライスシャワーの天皇賞勝利は、なんと1993年の関西圏の競馬場における
関東馬の初勝利でもあった。これはその年の関東馬による関西圏での初勝利としては
平成以降でも最も遅い記録である。


<スランプ>
しかし、極限まで仕上げた天皇賞(春)の反動や、距離が合わないレースが続いたためかその後は低迷し、
1994年には日経賞2着の後、骨折が判明して休養する憂き目にも遭った。
故障明けの有馬記念では三冠馬ナリタブライアンの3着に入って復活の兆しを見せたかとも思われたが、
1995年の年明け2戦はいずれも1番人気に推されながら掲示板を外してしまう。


<2年ぶりの復活>
そして迎えた天皇賞(春)、もはや終わったと思われたか、出走18頭中唯一のGI馬にもかかわらず4番人気に甘んじた。
レースが始まると鞍上の的場均は2周目の向正面から徐々に仕掛け始め、
第3コーナーから800mのロングスパートという大勝負を仕掛ける。
第4コーナーで馬群から抜け出して先頭に立ち、ステージチャンプの追い込みを鼻差しのいでゴールイン。
この時ステージチャンプに騎乗していた蛯名正義がガッツポーズを見せたため敗れたと思われたが、
わずかに先着しており1993年の同レース以来2年ぶりの勝利で復活を果たす。スローペースと見てスタミナ勝負に持ち込み、
加えて雨の重馬場をも利した的場均の好騎乗も光った。
3着にも、ハギノリアルキング が入りリアルシャダイ産駒が金・銀・銅を独占した。


<宝塚記念>
しかし次走に選んだ宝塚記念のレース中、



4コーナー手前付近で転倒・・・



重度の左第一指関節開放脱臼という故障を発症しており手当ての術が無く、
予後不良、安楽死となった。

<死後>
1995年秋、京都競馬場に同馬の記念碑が建立され、同年のJRA賞で「特別賞」が贈られた。
また、故郷・北海道登別市のユートピア牧場には墓(母ライラックポイントの墓も共にある)が、
育成場であった千葉県の大東牧場には馬主である栗林英雄・育子夫人の手により建立された記念碑がある。

他にも、茨城県の美浦トレーニングセンターにはライスシャワーを管理していた
飯塚好次調教師(現在は定年により引退)の手による記念碑(一般参拝可能)があり、
栃木県大田原市のくろばねスプリングスには供養塔が建立されている。
特に京都競馬場内の記念碑には現在でも多くの献花・供え物がされている。

<人気>
競走馬として頭角を現した当初は関西馬の大記録を相次いで阻止した関東馬というイメージが強く、
「関東の刺客」というあだ名にみらえるように関西では悪役的な扱いを受けていたが、
関東では関西の有力馬に土をつけたことで「関東馬のエース」として人気を博した。

2度目の天皇賞(春)優勝を遂げると「復活した古豪ステイヤー」として
ベビーフェイス的な人気を集めるようになり、
最後の競走となった宝塚記念のファン投票では最も多くの票を獲得した。

そのような状況下で競走中の故障により予後不良となったことで、その人気は死を悼む声と相まって
さらに上昇することとなった。 また、当時は長距離の重賞にハンデキャップ競走
(ライスシャワークラスになると負担重量を考慮した場合出走が困難)が多かったこと、
メルボルンカップ等の外国の長距離GIに出走するための遠征体制が必ずしも整っていなかったことなどから、
祖父にあたるマルゼンスキーにも共通する、
現在の状況ではさらなる活躍ができたかもしれないとの「可能性」を感じさせる点も魅力の一つである。

処置を受けたライスシャワーが納められた馬運車に向かって最敬礼をした的場の写真が
ファンの涙を誘い、今でも語り草となっている。


(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)


3冠とってたかなぁ・・

 
アグネスタキオンの皐月賞です。



私はこのレースをゴール前で見ていました。

馬券は外れましたが、
生でタキオンの走りを見れて興奮していました。


後々思うとこの時見に行って本当によかったです。


まさかこれが最後のレースになるとは・・・。


うーん。残念。


まだ手元にその時の新聞があります。



2001年5月3日(木)
「21世紀の怪物 アグネスタキオン引退へ」


何故か大切にとっておいてます。。


無事にいけば、3冠とってたと思うんだけどなぁ。


あなたもタキオンのベストと名高いこのレースを見れば、
その思いを強くすることでしょう。


クロフネ vs ジャンポケ vs タキオン


「ラジオたんぱ杯3歳S」




(゚ー゚*)



惚れちゃいそうです。。






<アグネスタキオン>

父:サンデーサイレンス
母:アグネスフローラ


デビューは比較的遅く2000年12月の阪神芝2000m新馬戦となった。
アグネスフライトの全弟ということで注目を浴びたものの、調教タイムが目立つ数字ではなかったため3番人気にとどまった。

だがレースでは、ただ1頭ラスト3ハロン33秒台の上がりで、
2着リブロードキャスト(ロジータの仔)に3馬身半差で圧勝。
3着にメイショウラムセス、5着に1番人気のボーンキング
(ダービー馬・フサイチコンコルドの半弟)、
9着にアドマイヤセレクト(セレクトセールで1億9千万円)と
良血馬の集まったレースだった。

2戦目に選んだラジオたんぱ杯3歳ステークスは
さらに相手が強化されたが見事に勝利。

2馬身半差の2着はのちの東京優駿(日本ダービー)、
ジャパンカップ優勝馬ジャングルポケット、
3着はのちのNHKマイルカップ、ジャパンカップダート優勝馬クロフネと、
後から振り返るとのちのG1馬が1着、2着、3着を占める
超ハイレベルの一戦であった。

翌年、年明け初戦に選んだ弥生賞は不良馬場となったが、
2着のボーンキングに手前も変えずに5馬身差という
圧倒的な差で勝利、その強さを中山の観衆に見せつけた。
4着にはのちの菊花賞、有馬記念、天皇賞(春)の優勝馬
マンハッタンカフェがいた。

年明け二戦目はクラシック第一弾となる皐月賞で、
単勝1.3倍の圧倒的1番人気に見事応えて快勝。

2着にはのちの宝塚記念優勝馬ダンツフレーム。
これで4戦全勝、しかもいずれも危なげのない内容での
勝利であったことから、三冠は確実との声もあったが、
5月2日に左前浅屈腱炎を発症し、ダービーを断念。

その後社台ファームに放牧されたが、関係者協議の上で
引退が決定し、8月29日に引退発表がなされた。
9月30日には阪神競馬場で引退式が行われた。

日本ダービーのTV中継で、
「ジャングルポケットがゴールした瞬間に、
2馬身先にアグネスタキオンが走っている姿が見えた」と、
ある解説者が発言していた事は有名。

また、完勝に見えた皐月賞であるが、鞍上の河内洋は
「この馬本来の走りではない」とコメント。

この馬の奥の深さがうかがい知れるコメントである。

また、屈腱炎を発症した左脚は弥生賞のレース後から、
具合があまり良くなかったとのこと。

同馬が下した同世代の馬(ジャングルポケット、クロフネ、
マンハッタンカフェ)がのちのちことごとく活躍したため、
同馬の評価は引退後も高まっていき、幻の三冠馬と呼ぶ人もいた。

(出展:ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典)

ありえない足

追い込みの名牝といえば。


ヒシアマゾン。


日本中の鳥肌を独り占めしたこのレースを覚えてますか?


1994年 クリスタルカップです。









(; ̄Д ̄)




まさに異次元の末脚です。



<ヒシアマゾン>

父 Theatrical
母 Katies

誕生日:1991年3月26日

20戦10勝

1993年9月19日の新馬戦を中舘英二騎手とのコンビで快勝。
続くプラタナス賞、京成杯3歳ステークスと2戦連続で2着した後の
阪神3歳牝馬ステークスで2着ローブモンタントに5馬身差をつけて
圧勝し、一躍牝馬のスターダムに躍り出た。

明けて1994年春、当時は外国産馬にクラシックへの出走が
認められていなかったため、裏街道を歩むことになった。

年明け緒戦の京成杯こそ2着に敗れたものの、
続くクイーンカップ、クリスタルカップ、
ニュージーランドトロフィー4歳ステークスといずれも
1番人気に応えて快勝した。

特にクリスタルカップで見せた残り100mでの4馬身差を差し、
逆に1馬身差をつけた驚異の追い込みは
今でもファンの間の語り草であり
井崎脩五郎も20世紀のベストレースの1つにあげている。

秋シーズンもクイーンステークス、ローズステークスを連勝し、
迎えたエリザベス女王杯では優駿牝馬優勝馬チョウカイキャロル
との叩きあいをハナ差制し、重賞6連勝で名実ともに4歳最強牝馬となった。

続く有馬記念でも並み居る牡馬を抑えてナリタブライアンの2着に入り、
最優秀4歳牝馬に選出された。

5歳となった1995年は、春にアメリカ遠征に挑戦するも
レース直前に脚部不安に見舞われ帰国、
帰国後緒戦の高松宮杯ではスタートから折り合いを欠き5着に敗れ、
デビューからの連続連対記録が12で途絶えるなど、
上半期は不本意なシーズンになった。

しかし秋になり、オールカマー、京都大賞典を圧勝し、
完全復調をアピール。迎えたジャパンカップでは、
直線鋭く追い込んだものの先に抜け出したランドに
1馬身半及ばず2着に敗れたが、負けてなお強しの印象であった。
続く有馬記念では1番人気に推されたものの5着に終わった。

6歳になると順調さを欠き、安田記念は10着、
エリザベス女王杯は2位入線も斜行により7着降着、
有馬記念は5着に敗れ、これを最後に現役を引退した。

GIこそ2勝にとどまったものの、その圧倒的な追い込みや、
外国産牝馬には不遇とも言える時代背景もあり、
今なお歴代最強牝馬として本馬の名を挙げる声も強い。

余談ながら、当初オーナーサイドは「ヒシアマゾネス」で
馬名登録申請したものの却下され、この名前になったという。


(出展:ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典)

どこまで行っても逃げてやる

今となっては伝説になりましたね。

サイレンススズカ。


クラシック時点では、ぱっとしなかったのですが、
その後の活躍はご存知の通りです。


そのサイレンススズカの全盛期かつベストレースと
私が考えるのはこれです。


1998年 毎日王冠








どこまで行っても逃げてくれそうです。


あの逃げ足で最後直線でさらに伸びてますからね。。


離された2着は、エルコンドルパサーです。


そう。


あの凱旋門賞2着馬のエルコンドルパサーです。


で、3着はグラスワンダー。


あのグラスワンダーも出てるんですよ。


スペシャルウィークとともに最強世代とよばれた彼らに
影もふませていません。


彼らが活躍することで、


サイレンススズカは本当に強かったんだ


と皆が認識するようになりました。


このときのスズカは、この距離での世界最強だったと思います。



ですが、最後のレースは・・・・。


そう。あの悲劇の天皇賞(秋)です。






1000mを57秒の超ハイペース。


私はアルタ前で見ていたのですが、悲鳴があがりました。。


今見ても胸が苦しくなります。


その雄姿は競馬ファンの心で生き続けます。。。







サイレンススズカ(Silence Suzuka、香港表記:無聲鈴鹿)
は日本の競走馬。主な勝ち鞍は宝塚記念。

1998年JRA賞特別賞受賞。

同年6連勝で臨んだ天皇賞(秋)にて故障を発生し、
予後不良と診断、安楽死処分された。

大逃げというレーススタイルで勝ち続けた異例の一流馬である。


粉砕骨折の詳しい原因はわかっておらず、
武は「原因は分からないのではなく、ない」
とレース後マスコミに対してコメントした。

よく言われた意見は、皮肉にもサイレンススズカの
あまりのスピードに骨が金属疲労のような症状を引き起こし
レース中に爆発したというものである。

ただし、短距離競走ではサイレンススズカと同様のスピードで
レースが展開するものの、引退まで無事に走りきる馬
(彼の母ワキアもそうであった)がほとんどであり、
スピードそのものというよりは、
むしろこのスピードで中距離を走り続けた結果とも取れる。

レース後の武の落胆ぶりは相当なもので、
同じレースに出ていた福永祐一も


「あんな落ち込んだ豊さんを今まで見たことがなかった」


と証言している。


また、この日の晩、ワインをあおり泥酔した武の姿が目撃されている。

サイレンススズカの死後、
エルコンドルパサーやグラスワンダーの活躍により
サイレンススズカのの評価はさらに上がることになった。

中でもエルコンドルパサーは、
この年のジャパンカップで勝利し、
翌年はフランスのG1、G2で1勝ずつをあげ、
なおかつ凱旋門賞ではモンジューの半馬身差2着と
勝ちに等しい内容であった。

このエルコンドルパサーに日本国内で土をつけたのは


サイレンススズカだけ


である。

サイレンススズカの墓は生まれ故郷である
北海道・平取町の稲原牧場に建てられている。

追悼歌「天馬のように(星野豊:作詞/作曲 因幡晃:歌)」
も作られた。


(出展:ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典)



・・・最強馬よ永遠に。。

後ろからはな〜んにもこない!


1975年の桜花賞。

脅威的な圧勝劇を演じたテスコガビーです。

桜花賞の最大着差をご覧ください。








杉本さんの「後ろからはな〜んにもこない!」が印象的です。


それにしても、桜花賞でここまでの圧勝はそうそうありません。


現役時代はスターとして活躍しましたが、

晩年は恵まれた生活を送れなかったんですよね。
馬主のエゴには憤りを感じます。


無念だったでしょうね・・・。



<テスコガビーとは>

父:テスコボーイ
母:キタノリュウ

テスコガビーは、日本の競走馬。

1975年の桜花賞・優駿牝馬(オークス)の牝馬クラシック二冠を達成した。

1974年優駿賞最優秀3歳牝馬、1975年優駿賞最優秀4歳牝馬。

名前の由来は馬主の自宅近くに住む外国人の少女ガビエルちゃんから
愛称『ガビー』を付けた。

愛らしい少女は優駿牝馬を優勝した時、記念撮影に収まった。

真っ黒な青毛で派手な流星の外見と牝馬らしからぬ
500キロ近い堂々とした馬体からかカブラヤオーよりもファンが多かった。


1974年9月、東京競馬場で迎えたデビュー戦で、7馬身差をつけて優勝する。
圧倒的なスピードを武器に、3戦目の京成杯3歳ステークスは
6馬身差のレコードタイムでの優勝だった。
3歳時は3戦3勝で、最優秀3歳牝馬に選ばれる。

翌年、4歳になったテスコガビーは京成杯も優勝。
しかし、カブラヤオーとの決戦となった東京4歳ステークスにおいて、
テスコガビーはハナに立たずに
常にカブラヤオーの後方をガードするような位置取りを取り、
直線だけの競馬をする内容でクビ差の2着に敗れる。

当時、陣営は両馬を競り合わて共倒れさせたくなかったからと語っていたが、
実はカブラヤオーの他馬を怖がる弱点を隠す為であり、
この難しい騎乗をこなす為に両馬の主戦であった菅原泰夫は、
カブラヤオーを厩舎所属の弟弟子の菅野澄男に任せて自身は
テスコガビーに騎乗している。

初めての関西遠征となった阪神4歳牝馬特別でもレコード勝ち。
桜花賞本番では、2着ジョーケンプトンに1.9秒差、大差での圧勝だった。

この着差は桜花賞最大着差である。
テレビ中継の実況の杉本清アナウンサーの、

「後ろからはなんにも来ない、後ろからはなんにも来ない」

という実況は競馬ファンにはあまりにも有名である。

次走のオークストライアル4歳牝馬特別では初めて連を外すものの、

本番では見事なスローペースに持ち込み、
2着ソシアルトウショウ(トウショウボーイの姉)に8馬身差をつけて勝った。

この8馬身差は日本中央競馬会優駿牝馬(オークス)史上最大着差で、
それ以前を含めても戦時中のクリフジ(10馬身)
・終戦直後のトキツカゼ(大差)に次ぐ記録的圧勝である。

またこの年、鞍上の菅原はテスコガビーの翌週のカブラヤオーでも
皐月賞、東京優駿(日本ダービー)を制し、
春のクラシック完全制覇の偉業を成し遂げた。

その後、外傷で目標レースを切り替えたが、
ビクトリアカップに向かって順調と思われた矢先、
再び怪我に襲われ長期の休養に入る。

優駿牝馬の次走はほぼ1年後の平場オープン競走だったが、6着に敗れる。

その後、またしても怪我に見舞われ、
競走馬としての登録を抹消、ここで一度は引退した。

このテスコガビーの走りを主戦の菅原は


「テンよし、中よし、しまいよし」


とコメントし、後年


「カブラヤオーも強かったが、テスコガビーはもっと強かった」


と東京4歳ステークスでの逸話を交え語っている。


引退して怪我の治療と繁殖生活に入る準備をしていた
テスコガビーであったが、それから約1年後、
事業に失敗し経済的な問題を抱えた馬主の突然の方針転換により
競走馬として再登録され、現役復帰を目指す事になる。

しかし、1年近く繁殖馬としての身体を作っていたテスコガビーは
この復帰に向けて繰り返された無茶な調教に耐えられず、
1977年1月19日、放牧先の青森の牧場で調教中に心臓麻痺により急死した。

遺骨は牧場関係者が牧場の片隅に作った墓に埋葬し、
木製の墓標が立てられたが、これだけの名馬の墓としては
実に寂しいものであったという。

他方、馬主が「馬の墓など造る金も無い」として、
死体を食肉解体業者に売却したという説も、
インターネットを中心に広く語られている。

なお、テスコガビーの死の数日後に、
馬主が経営していた不動産会社は倒産している。

なお、この馬主のエゴイズムにより引退した名馬が
現役復帰を命じられ、無茶なトレーニングを課せられて
急死したという事態は競馬ファンに大きなショックを与える事となったが、
これと同様に中央競馬会にもショックを与える出来事であった。

ほどなく、繁殖の為に競走馬を引退し中央競馬の登録を抹消した馬については、
中央競馬への再登録ができないという規則を制定しており、
果たして中央競馬会が受けた衝撃の大きさが計り知れる。

その後、重賞競走優勝の牡馬を繁殖目的として引退させたものの、
相手となる牝馬を集められなかった、
種牡馬としての能力に問題があった、
などの事情で競走馬として再起した馬が何頭かいるが、
いずれも地方競馬での再起であり、
中央競馬に競走馬として復帰できた馬はいない。
(なお、中央競馬に競馬場の誘導馬として戻ってきた馬は存在する)

因みに、八大競走を大差勝ちした牝馬はテスコガビー以外に
3頭いるが、菊花賞で達成したクリフジは牝馬二冠馬ヤマイチを、
オークスで達成したトキツカゼは
2頭の年度代表馬(オートキツ・オンワードゼア)を輩出。

仔出しの悪さ故に4頭しか産駒を残せなかった天皇賞・秋で
八大競走史上初の快挙を成し遂げたヒサトモにしても末裔に
トウカイローマン・トウカイテイオーがいる事を考えると、
父テスコボーイ・母の父モンタヴァルと言う優秀な
血を残せなかったのは実に惜しまれる事である。

なお、テスコガビーの弟には東京大賞典などを制した
トドロキヒリュウがいたが、中央移籍後、
1979年の天皇賞(春)で故障を発生し、
最下位で完走したものの予後不良となっている。


(出展:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)



・・・悲劇の名牝です。

 

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