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ブルボンもマックイーンも・・

 
ライスシャワー復活の天皇賞(春)です。


「ブルボンもマックイーンも応援している〜」

「やっぱりこの馬は強いのか〜」


杉本さん、いいこと言いますね。ホントに。





私は札幌のWINDSでこのレースを見ていたのですが、

ライスがあがっていった時には、もうほんとに、

建物が揺れるくらいの歓声があがりましたよ。


なんか。競馬っていいなぁ。。


と思った春の思い出です。


でも。名馬の宿命なんですかね・・・


最後は悲しい結果になってしまいました。




悲鳴が起きてますね・・・。


久しぶりに見てちょっと胸が苦しくなりました。。



その雄姿はいつまでも忘れません。



<ライスシャワー>

父:リアルシャダイ
母:ライラックポイント


<デビューから東京優駿まで>
母・ライラックポイントの「ライ」になぞらえて命名。
父・リアルシャダイの「シャ」を合わせて取り入れているという説もある。

1991年8月10日に新潟競馬場の新馬戦でデビュー勝ちし、
2戦目の新潟3歳ステークスは11着に敗退するが、続く芙蓉ステークスで2勝目を挙げる。
クラシック候補と期待されたが骨折で休養に入る。

明けて1992年、4歳(現馬齢表記で3歳)となったライスシャワーはスプリングステークス(4着)で復帰する。
続く皐月賞、NHK杯ではともに8着と精彩を欠き、東京優駿(日本ダービー)では16番人気の低評価を受けるが、
レースでは逃げるミホノブルボンの2番手を追走、直線では4馬身突き放されるが
後続の追撃(マヤノペトリュースとの壮絶な叩き合い)を振り切り、2着でゴールした。


<ミホノブルボンのクラシック三冠を阻止>
秋に入り、緒戦のセントライト記念をレガシーワールドの2着(鞍上は田中勝春)。
この頃から東京優駿(日本ダービー)の激走が本物であったと認識されてきた
(とはいえ、人気面では上がり馬のトレヴィット、ホワイトアクセルに続く3番人気に甘んじていた)。
続く京都新聞杯ではミホノブルボンの2着だったものの、その着差は1馬身半にまで縮まっていた。
迎えたクラシック最終戦の菊花賞では、無敗の三冠がかかったミホノブルボンを直線で差し切り、
3分5秒0のレコードタイム(当時)で優勝。自身初の重賞制覇をGIで飾る。


<メジロマックイーンの天皇賞(春)3連覇を阻止>
翌1993年は、緒戦の目黒記念2着のあと、順調に日経賞を勝利し、大目標である天皇賞(春)では、
3連覇がかかったメジロマックイーンを徹底マークする競馬で破り、
3分17秒1のレコードタイム(当時)で快勝する。大記録のかかった馬をゴール前鋭く差し切る姿から
「淀の刺客」「レコードクラッシャー」と呼ばれた。

余談ではあるが、当時は平成初頭の関西馬全盛期にあって、最もピークを極めた関東馬不遇の時代であったが、
この4月25日のライスシャワーの天皇賞勝利は、なんと1993年の関西圏の競馬場における
関東馬の初勝利でもあった。これはその年の関東馬による関西圏での初勝利としては
平成以降でも最も遅い記録である。


<スランプ>
しかし、極限まで仕上げた天皇賞(春)の反動や、距離が合わないレースが続いたためかその後は低迷し、
1994年には日経賞2着の後、骨折が判明して休養する憂き目にも遭った。
故障明けの有馬記念では三冠馬ナリタブライアンの3着に入って復活の兆しを見せたかとも思われたが、
1995年の年明け2戦はいずれも1番人気に推されながら掲示板を外してしまう。


<2年ぶりの復活>
そして迎えた天皇賞(春)、もはや終わったと思われたか、出走18頭中唯一のGI馬にもかかわらず4番人気に甘んじた。
レースが始まると鞍上の的場均は2周目の向正面から徐々に仕掛け始め、
第3コーナーから800mのロングスパートという大勝負を仕掛ける。
第4コーナーで馬群から抜け出して先頭に立ち、ステージチャンプの追い込みを鼻差しのいでゴールイン。
この時ステージチャンプに騎乗していた蛯名正義がガッツポーズを見せたため敗れたと思われたが、
わずかに先着しており1993年の同レース以来2年ぶりの勝利で復活を果たす。スローペースと見てスタミナ勝負に持ち込み、
加えて雨の重馬場をも利した的場均の好騎乗も光った。
3着にも、ハギノリアルキング が入りリアルシャダイ産駒が金・銀・銅を独占した。


<宝塚記念>
しかし次走に選んだ宝塚記念のレース中、



4コーナー手前付近で転倒・・・



重度の左第一指関節開放脱臼という故障を発症しており手当ての術が無く、
予後不良、安楽死となった。

<死後>
1995年秋、京都競馬場に同馬の記念碑が建立され、同年のJRA賞で「特別賞」が贈られた。
また、故郷・北海道登別市のユートピア牧場には墓(母ライラックポイントの墓も共にある)が、
育成場であった千葉県の大東牧場には馬主である栗林英雄・育子夫人の手により建立された記念碑がある。

他にも、茨城県の美浦トレーニングセンターにはライスシャワーを管理していた
飯塚好次調教師(現在は定年により引退)の手による記念碑(一般参拝可能)があり、
栃木県大田原市のくろばねスプリングスには供養塔が建立されている。
特に京都競馬場内の記念碑には現在でも多くの献花・供え物がされている。

<人気>
競走馬として頭角を現した当初は関西馬の大記録を相次いで阻止した関東馬というイメージが強く、
「関東の刺客」というあだ名にみらえるように関西では悪役的な扱いを受けていたが、
関東では関西の有力馬に土をつけたことで「関東馬のエース」として人気を博した。

2度目の天皇賞(春)優勝を遂げると「復活した古豪ステイヤー」として
ベビーフェイス的な人気を集めるようになり、
最後の競走となった宝塚記念のファン投票では最も多くの票を獲得した。

そのような状況下で競走中の故障により予後不良となったことで、その人気は死を悼む声と相まって
さらに上昇することとなった。 また、当時は長距離の重賞にハンデキャップ競走
(ライスシャワークラスになると負担重量を考慮した場合出走が困難)が多かったこと、
メルボルンカップ等の外国の長距離GIに出走するための遠征体制が必ずしも整っていなかったことなどから、
祖父にあたるマルゼンスキーにも共通する、
現在の状況ではさらなる活躍ができたかもしれないとの「可能性」を感じさせる点も魅力の一つである。

処置を受けたライスシャワーが納められた馬運車に向かって最敬礼をした的場の写真が
ファンの涙を誘い、今でも語り草となっている。


(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)


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