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後ろからはな〜んにもこない!


1975年の桜花賞。

脅威的な圧勝劇を演じたテスコガビーです。

桜花賞の最大着差をご覧ください。








杉本さんの「後ろからはな〜んにもこない!」が印象的です。


それにしても、桜花賞でここまでの圧勝はそうそうありません。


現役時代はスターとして活躍しましたが、

晩年は恵まれた生活を送れなかったんですよね。
馬主のエゴには憤りを感じます。


無念だったでしょうね・・・。



<テスコガビーとは>

父:テスコボーイ
母:キタノリュウ

テスコガビーは、日本の競走馬。

1975年の桜花賞・優駿牝馬(オークス)の牝馬クラシック二冠を達成した。

1974年優駿賞最優秀3歳牝馬、1975年優駿賞最優秀4歳牝馬。

名前の由来は馬主の自宅近くに住む外国人の少女ガビエルちゃんから
愛称『ガビー』を付けた。

愛らしい少女は優駿牝馬を優勝した時、記念撮影に収まった。

真っ黒な青毛で派手な流星の外見と牝馬らしからぬ
500キロ近い堂々とした馬体からかカブラヤオーよりもファンが多かった。


1974年9月、東京競馬場で迎えたデビュー戦で、7馬身差をつけて優勝する。
圧倒的なスピードを武器に、3戦目の京成杯3歳ステークスは
6馬身差のレコードタイムでの優勝だった。
3歳時は3戦3勝で、最優秀3歳牝馬に選ばれる。

翌年、4歳になったテスコガビーは京成杯も優勝。
しかし、カブラヤオーとの決戦となった東京4歳ステークスにおいて、
テスコガビーはハナに立たずに
常にカブラヤオーの後方をガードするような位置取りを取り、
直線だけの競馬をする内容でクビ差の2着に敗れる。

当時、陣営は両馬を競り合わて共倒れさせたくなかったからと語っていたが、
実はカブラヤオーの他馬を怖がる弱点を隠す為であり、
この難しい騎乗をこなす為に両馬の主戦であった菅原泰夫は、
カブラヤオーを厩舎所属の弟弟子の菅野澄男に任せて自身は
テスコガビーに騎乗している。

初めての関西遠征となった阪神4歳牝馬特別でもレコード勝ち。
桜花賞本番では、2着ジョーケンプトンに1.9秒差、大差での圧勝だった。

この着差は桜花賞最大着差である。
テレビ中継の実況の杉本清アナウンサーの、

「後ろからはなんにも来ない、後ろからはなんにも来ない」

という実況は競馬ファンにはあまりにも有名である。

次走のオークストライアル4歳牝馬特別では初めて連を外すものの、

本番では見事なスローペースに持ち込み、
2着ソシアルトウショウ(トウショウボーイの姉)に8馬身差をつけて勝った。

この8馬身差は日本中央競馬会優駿牝馬(オークス)史上最大着差で、
それ以前を含めても戦時中のクリフジ(10馬身)
・終戦直後のトキツカゼ(大差)に次ぐ記録的圧勝である。

またこの年、鞍上の菅原はテスコガビーの翌週のカブラヤオーでも
皐月賞、東京優駿(日本ダービー)を制し、
春のクラシック完全制覇の偉業を成し遂げた。

その後、外傷で目標レースを切り替えたが、
ビクトリアカップに向かって順調と思われた矢先、
再び怪我に襲われ長期の休養に入る。

優駿牝馬の次走はほぼ1年後の平場オープン競走だったが、6着に敗れる。

その後、またしても怪我に見舞われ、
競走馬としての登録を抹消、ここで一度は引退した。

このテスコガビーの走りを主戦の菅原は


「テンよし、中よし、しまいよし」


とコメントし、後年


「カブラヤオーも強かったが、テスコガビーはもっと強かった」


と東京4歳ステークスでの逸話を交え語っている。


引退して怪我の治療と繁殖生活に入る準備をしていた
テスコガビーであったが、それから約1年後、
事業に失敗し経済的な問題を抱えた馬主の突然の方針転換により
競走馬として再登録され、現役復帰を目指す事になる。

しかし、1年近く繁殖馬としての身体を作っていたテスコガビーは
この復帰に向けて繰り返された無茶な調教に耐えられず、
1977年1月19日、放牧先の青森の牧場で調教中に心臓麻痺により急死した。

遺骨は牧場関係者が牧場の片隅に作った墓に埋葬し、
木製の墓標が立てられたが、これだけの名馬の墓としては
実に寂しいものであったという。

他方、馬主が「馬の墓など造る金も無い」として、
死体を食肉解体業者に売却したという説も、
インターネットを中心に広く語られている。

なお、テスコガビーの死の数日後に、
馬主が経営していた不動産会社は倒産している。

なお、この馬主のエゴイズムにより引退した名馬が
現役復帰を命じられ、無茶なトレーニングを課せられて
急死したという事態は競馬ファンに大きなショックを与える事となったが、
これと同様に中央競馬会にもショックを与える出来事であった。

ほどなく、繁殖の為に競走馬を引退し中央競馬の登録を抹消した馬については、
中央競馬への再登録ができないという規則を制定しており、
果たして中央競馬会が受けた衝撃の大きさが計り知れる。

その後、重賞競走優勝の牡馬を繁殖目的として引退させたものの、
相手となる牝馬を集められなかった、
種牡馬としての能力に問題があった、
などの事情で競走馬として再起した馬が何頭かいるが、
いずれも地方競馬での再起であり、
中央競馬に競走馬として復帰できた馬はいない。
(なお、中央競馬に競馬場の誘導馬として戻ってきた馬は存在する)

因みに、八大競走を大差勝ちした牝馬はテスコガビー以外に
3頭いるが、菊花賞で達成したクリフジは牝馬二冠馬ヤマイチを、
オークスで達成したトキツカゼは
2頭の年度代表馬(オートキツ・オンワードゼア)を輩出。

仔出しの悪さ故に4頭しか産駒を残せなかった天皇賞・秋で
八大競走史上初の快挙を成し遂げたヒサトモにしても末裔に
トウカイローマン・トウカイテイオーがいる事を考えると、
父テスコボーイ・母の父モンタヴァルと言う優秀な
血を残せなかったのは実に惜しまれる事である。

なお、テスコガビーの弟には東京大賞典などを制した
トドロキヒリュウがいたが、中央移籍後、
1979年の天皇賞(春)で故障を発生し、
最下位で完走したものの予後不良となっている。


(出展:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)



・・・悲劇の名牝です。

 

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